ぺらっぺら
面白いギャグを思いついたので言います。
浅田真央「朝だ!わお!」
ブラウザバック待ったなしの出だしですね。
先日聴講した就職課主催の業界・仕事研究セミナーで話をされたリース会社の人事マンが、「最近の新入社員は文章が書けない」と言っていました。会社で新人に報告書等を書かせると、大学時代、主にLINEやTwitterなどで短い簡単な文章しか書いてこなかったせいで、まともな文章が書けない人が多いらしい。文章を今のうちから書くことを勧められました。
午前4時。ついさきほど、土屋賢二さんの自伝的エッセイ『哲学者にならない方法』を読み終わり、家の外でたばこを吸って、冷めきったコーヒーをシンクに流したところです。ユーモアエッセイで有名な土屋さんは、ふざけたおもしろおかしいエッセイ集を数多く出版されている傍らジャズをたしなむ哲学者です。読んだことある人はわかると思いますが、あんなおもしろい文章を書く人が、実は東大出身でお茶の水大学名誉教授だというから驚きですよね。その土屋さんが哲学を志すようになったいきさつを綴ったのがこの本です。本当におもしろすぎました。(詳しい内容はまたの機会に。) 同時に、自分はなんて何も考えてない薄っぺらな大学生なんだろうと反省しました。もうぺらっぺら、0.01mmオカモトコンドーム以下ですよ。
ただ僕自身、それができているかは別として、なにかについて考えることは好きです。好きなのに日常的に実行することがほぼないのが驚きですが。普段は、寝ているか、アコースティックギターでCやGのコードを鳴らすか、緑色と赤色の的に向かってダーツを放っているかという思考とは程遠い生活を送っています。そんな僕でも、本を読んでいるときと、こうして文章を書いているときだけは脳を働かすことができるわけです。刈谷剛彦さんも『知的複眼思考法 誰もが持っている想像力のスイッチ』という著書の中で「思考を厳密にするうえで、書くことこそが、もっとも基礎的な営みである」と言っていますし。
僕は人と話すのも好きです。その人が何を考えているのか聞けるのはすごく楽しいし、他人に伝えようとすることでよりいっそう自身の思考も深まります。あれ?でもこれって思考することが好きなんじゃなくて、会話やコミュニケーションが好きなのでしょうか。思考というのが個人的な行為であるのに対して、伝達という理論を組み立てるプロセスは対人的な行為です。最初の発想や思考過程には、言葉によって明確に限定された論理というものは存在しません。言葉や論理というものは、他人や自分自身に説明するために後から補強されたものです。一度通った道筋を、後からもう一度通りやすいように舗装するようなもの。でも、言葉なくして複雑なことって考えられるでしょうか?言葉によって思考しているような気がします。しかしそれも、個人の頭脳の中の別の人格が、情報や意見を交換し議論している状態だと考えると説明がつきますね。なんだかよくわかりません。この方面について数冊読んでみようかな。テキトーなことを言ってすみません。なにか考えがある方はぜひ教えてください。
話はそれましたが、僕の場合、思考を言語化できてはじめて「考えられた」と思うわけです。ですが考えるということは、日常的にしていないとなかなか難しい。スポーツや楽器と一緒で、普段から練習していないとできません。僕の尊敬する知人は「賢さってのは、その人が普段頭を使う頻度に比例する」と言っていました。考えるために、もっと本を読んだり文を書いたり、人と話したりしたい。よろしくお願いします。
書きたいことはもっとたくさんありますが、今回はこのへんで。
知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)
- 作者: 苅谷剛彦
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/05/20
- メディア: 文庫
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